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2002年6月のお題目一覧


6月3日(月) お買い物の巻
ウルムチのお買い物事情について。
以前、中国の店員の態度の悪さは有名でした。
市場経済化以降は、だいぶ事態も改善してきたと聞きますが、
それでも依然として「お客<店員」の力関係は根強く残っている感じです。

個人商店の場合はそうでもないのですが、ちょっとしたスーパーなどにいくと、
店員の小姐の態度のでかいこと。売り場には必要以上に小姐があふれており、
売り場に入っていくとすぐさまマークされます。
万引きはしないか、何か売りつけられるものは無いか、
鷹のように鋭い目でガムをくちゃくちゃ言わせながらついてきます。


先日も、高い棚にある商品を見ようと手を伸ばしたところ、
さっそく小姐がやってきて、「アタシが取るからどいて」と言われました。
仕方がないので、私より15センチほど低い小姐が、
苦労しながら棚の上から物を下ろすのを見ていました。
ただ、商品が思っていたものと違ったので、あっちの藍色の方にしたいんだけどというと、
「アンタねぇ、藍色が欲しいんならはじめっからそう言いなさいよっ!!」
と怒られました。だから自分で取ろうとしていたのに・・・。


またある時、帰宅後に商品のパッケージを開けてみたところ、ひびが入っていました。
ちょうどパッケージのシールに隠されていて見えなかったのです。
そこで翌日スーパーに行き、「これ、ひびが入っていたから交換したいんですけど」といいいました。
すると店員のお兄さんは、商品を手にとってしげしげと眺めた挙句に、
「元から?アンタが自分で壊したんだろ。だめだめ、交換できないよ」と。

何と言うこと。私が自分で壊したものをスーパーのせいにするようなけちな人間に見えるのでしょうか。
これは私の名誉にかけて引き下がるわけには行きません。
それから考え付く限りのあらゆる言葉を尽くして(漢語、英語、ボディランゲージ等々)、
この商品が買った時に既に壊れていたこと、ただそれが包装に隠されていて見えなかったこと、
よってそちらには返品に応じる義務があることをとくとくと説明しました。

30分後、ようやく交換に応じてくれた(というより、面倒くさくなった)店員は、
レシートに交換許可のスタンプを押してくれました。ところが最後の一言がいけません。
「今度から気をつけろよ」と。

「それはこっちのセリフだ」。
気をつけようにもしっかりと包装してあるのだから判るわけが無いじゃないか。
怒りながら売り場に向かったところ、折りしも人民のおばさんが同じ商品を手にとっていました。
すると彼女は私の眼前で、おもむろに包装をバリバリと破り、中をしげしげと見て、
なおかつ買わずにどこかに行ってしまうではないですか!?


がくっ・・・・。(←くずおれた音)
私は、自分の非を悟りました。そうか、あそこまでやらなければいけなかったのか・・・。
確かめもせずに買った私が悪かったです。ごめんなさい。


6月6日(木) 習慣の違いの巻
日本では、手をつないで歩くのは熱に浮かされている時のカップルか、
チャーミーグリーンに登場する嘘っぽい夫婦ぐらいのものですが、
ここ新疆の人たちは手をつなぐのが大好きです。それはもう老若男女民族を問わず。

女性同士の二人連れは当たり前。いい年をした息子が、もっといい年をしたお父さんと、
仲良く手をつないで歩いているほほえましい(?)姿もよく目にします。


彼らがやっている分には勝手にしてくれと思うのですが、
困るのは私自身にもその習慣が及ぶことです。
正直言うと、私は手をつなぐのは苦手です。いくら女子校出身だからと言って、
やっぱり日本人にとって女同士で手をつなぐというのは、それほど普通ではないことなのです。

そこで何とか手をつながれるのを阻止しようと、ポケットに手を突っ込んだり、
やたらと不自然にかばんを両手で掴んだりと、努力をしてみるものの、
相手もさるもの、今度は腕を組まれてしまうということもしょっちゅうです。


しかしこういうことって、なかなか言いにくいものなんですよね。
相手は小さい頃から習慣になってしまっていて、何の疑問も感じずにしているんでしょうし。
親愛の情と気遣いを無下にできず。習慣の違いは難しいです。はあ。


6月9日(日) ココロノスキマの巻
物のない時代を経て、今、部屋にはテレビと電話があります。
冷蔵庫と洗濯機、ガス台だって使えます。
よき先生、よき助言者にも恵まれ、勉強する環境も整っています。

傍目から見れば、何不自由ない暮らしなのですが(新疆基準)、
何かが足りないような気がしています。心の隙間というのでしょうか。


今日、町を歩いていたところ、
小さな小さな檻入った、これまた小さな小さな猫が売られているのを見て理解しました。
そうだこの心の隙間は猫がいないからなんだと。
最近長年連れ添ってきた愛猫を亡くし、しばらく猫はいいやと思っていたのですが、
何せ猫と暮らした月日が人生の半分以上。
気が付いたときには、すでに猫無しでは生きていけない体になってしまっていたのです。


そこでさっそく猫を買い、家につれて帰りました。
明日からは念願の猫のある暮らしができそうです。めでたしめでたし。

・・・な訳がない。
断腸の思いでその場を立ち去り、代わりにへんちくりんな猫のスリッパを買って帰ってきました。
今、それを眺めては、ちっともこころ安らがない暮らしを送っています。ああ、猫が飼いたい。


6月12日(水) 晴れときどき菜っぱの巻
気持ちのいい昼下がり、部屋で勉強していたところ、突然異臭が。

どうやらにおいの元は外から来ているようです。ふと見ると開け放しておいた窓に何かが。
一体何だろうと思い近寄ってみると、腐った菜っぱの切れ端のようなものがへばりついています。
胸のむかつく匂いはその菜っぱから発生している様子。


なぜこんなとこに菜っぱが?と思い、しばし考えていると、
ポタッ。手に何か液体が落ちてきました。

ポタポタッ、ジョボー。汚水はどんどんと降り注いできます。
続いてドサッという音がして、またまた菜っぱが降ってきました。
とどまることを知らない汚水と菜っぱの落下により、
ついに窓ガラスはべとべとになってしまいました。

慌てて隣の部屋の窓から見上げてみると、どうも2階上の部屋から落ちてきている様子。
窓からゴミを捨てるとはどういう了見だと、さっそく文句を言いに行くことにしました。


ガンガンガン。ドアを叩くと中から一人の男の人が出てきました。
年のころは30歳ぐらいでしょうか。こいつか。
ニーハオとか言っている場合でもないので、
単刀直入にあなたはなぜ窓からゴミを捨てるのかと抗議。
すると、あまり悪びれた様子もなく、あれはゴミじゃない、漬物だと言うではないですか。

部屋に入れてもらって見てみると、窓の外に板が突き出ており、
確かに言われてみれば漬物と言えなくもないような菜っぱが乗っていました。
百歩譲って、この悪臭ふんぷんたる代物が漬物だと認めたとしましょう。
だから何だ。それは私の部屋に落ちてきた時点ではすでにゴミなのです。
何でこんなものを窓の外に干すんだと問い詰めたところ、
だって他に干すところがないからしょうがないじゃないかと。

腹が立つのは山々ですが、謝っているようですし、もうしないと言うので、
とりあえず許してあげることにしました。


階下に降りてきて、吐き気をこらえながら菜っぱを捨て、汚水を拭いているその時、
コンコンコン。扉をノックする音が。
誰だろうと思い、開けてみると、先ほどの男性が立っています。
彼はニコニコとしながら「トゥイブチィ」といい、
そしてお詫びのしるしにと手にもっている包みをくれました。


貢物を持ってくるとはなかなか感心な奴じゃと、多少気をよくした私。
しかし奴を信じた私が馬鹿だったのです。

奴が帰った後、包み紙を開けてみると、
そこには十字の印と「必読」の文字が!!
そう、奴が持ってきたものは、比較的最近できたと思われる耶蘇教と関係があるようなないような、
そんな宗教に誘う小冊子だったのでした。もちろん信仰は人の自由です。
誰が何を信じようがそれはかまいません。しかし人の部屋にゴミをぶちまけておいて、
その機会を捕らえて宗教勧誘を行うとは、ケチャップ泥棒※以下の所業です。
ふざけんなって感じです。


私は今日この日を、この仕打ちを決して忘れません。
リメンバー6・12!コノウラミハラサデオクベキカ!!

とりあえずクサヤの干物を空輸してもらって、下からいぶしてやろうかと思う今日この頃。
生ぬるすぎでしょうか?


※ ヨーロッパなどで多発する犯罪で、人の背にケチャップをぶっ掛けておきながら、
何食わぬ顔でケチャップがついていますよと指摘し、上着を取るのを手伝うふりをして財布をする泥棒。

 証拠物件はこちらからごらんになれます。


6月16日(日) じゃがいもに芽が生えたの巻
こう見えて料理をするのはとても好きです。
実家にいた時は和食を初めとして、洋食、中華、タイ料理、
変わったところではトルコ料理にも挑戦し、しかもかなりの高評価を得ていました(自己採点)。
しかし、ここウルムチに来てからは、なかなか腕を振るう機会がありません。


その理由の一つに、調味料の不足があげられます。
何しろここは異国の地。砂糖、塩、胡椒といった普遍的な調味料はともかく、
日本でごく普通に使っていたものがなかなか手に入りません。

色々と試してみて、醤油、酢、などは使用に耐える物を見つけ、
ドレッシング、マヨネーズなども自分で作っているのですが、
どうにもならないのが日本酒と味噌です。
大量に使うわけではないのですが、さりとて無いと何か一味足りないという感じ。
こればっかりは作るわけにもいかないし、どうしたもんかと思っています。


しかし、それは大した問題ではなく、本当の理由は、
いつもおなかいっぱいで作る気がしないということだったりします。

朝はナンとヨーグルト、果物に紅茶。
昼はご飯をメインにちゃんとした食事を作り(たまに外食)、
夜は野菜を中心にした軽い食事を。
これが私の思い描く理想的なライフスタイルなのですが、
実際にこのようにいくことは極めて稀なのです。



朝はまだいいとして、問題は昼。誰かと会う約束をすると、もれなく昼食がついてきます。
概して新疆の食事の量は多く、半分と注文しても当社比1.5倍ぐらいの量があります。
しかも基本的には肉と炭水化物、そして油なので、胃もたれしない方が不思議です。
この時点すでにでボディーブローのダメージがじわじわときています。

夕方、バザールに買い物に行きます。自分では計画的に買い物をしているのですが、
なぜかいつも余計な手土産、―杏、メロン、スイカ―を持って帰る羽目になります。
そして、行けば必ずいつものナン屋さんで必ずお茶を飲まなければいけません。
ふと気が付くと目の前にサムサや、ナンや、ラグマンの具といったものが並んでいて
「さあ、食っていけ」と。小さな親切は時として大きな負担になります。

夜、ご飯時に外をうろついていると大変なことになります。
夕飯はまだだろう、さあ食ってけと引っ張り込まれてしまうからです。
たっぷり一時間はかけて用意をした後、我々は夜、重い食事を食べないんだと、
自慢気に出てくる食事は、日本人挑から見ると十分にヘビー級で、もう見ただけで胸がいっぱい。
食事の後に出てくるスイカやメロンは、弱りきった胃へのフィニッシュブローとなります。
ぼろぼろに打ちのめされて帰宅した後、ノックダウン。
そして翌朝は何も食べる気がしなくなるのでした。


※repeat


このような過食スパイラルにより、いつもおなかいっぱい胸いっぱい。
冷蔵庫の中も食べてないものでいっぱいになっているのでした。
そうこうしている内に、じゃがいもに芽が生えた。
赤ん坊の頭ほどもある巨大なジャガイモにびっしりと生えた芽を見ながら、
ため息をつく今日この頃です。ああ、早く食べなきゃ・・・。


6月25日(火) 雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズの巻
あれから10日。雨の日も風の日も、菜っぱは依然としてぶら下がっています。

雨に濡れ、風に飛ばされ、干している意味があるのか?
ハエの大群がへばりついて真っ黒になっているあれを、本当に食べる気があるのか?
ひょっとすると菜っぱを落としたのは陽動作戦で、
奴の目的は最初からあのパンフレットを渡すことにあったのではないか?
金持ち日本人を引っ掛けて上納金を増やす気ではないか?
とまあ、過剰な被害妄想も入り混じって、未だに怒り覚めやらぬ今日この頃です。


ところで、実は「宗教勧誘」は日常茶飯事だったりします。
何しろここは新疆。周囲には、長年にわたる共産主義の支配にもめげず、
立派にイスラームを保ちつづけたウイグルの皆さんがたくさんいらっしゃいます。

そこへ、「え?宗教?生まれた時は神社に行って、結婚式は教会で。
死んだ時はお寺でお葬式かな。樹とか岩とか、狐とかも拝んじゃうんだ。
日本人はいい加減だからね・・・。」とか、
「豚?うん、食べるよ。結構美味しい。新疆では食べないけどね(←一応のフォロー)」とか。
ダメ異教徒っぷりを公言してはばからない日本人が紛れ込んで来たのですから、もう大変。
何とかこの愚かな異教徒を真っ当な道に導こうと、日々努力がなされている訳です。

ただ、勧め方は「イスラームはいいぞ」「アッラーは偉大なお方だ」とか非常にストレートで、
宗教勧誘特有の人のココロノスキマにつけこむようないやらしさは感じません。
それは、彼らの信仰が非常に素朴だからかもしれません。


ただ、だからといって私がムスリムになるかと言うと、それはまた別の問題。
私自身、神はいるとは思うのですが、それが私の頭の外にも存在するという確証を
未だにつかめないでいるからです。
そしてもしも本当に神がいたとしても(宗教にこんな仮定は許されないのですが)、
何もその存在に名前を付ける必要はないのではないかと思うのです。

私は信仰のない無神論者な訳ではなく、信念を持った宗教不要論者なのですが、
ただそのことを論理的に、説得力をもって説明するだけの熱意も語学力もないので、
最近はああ異教徒だとも、豚も食べるさ。それがどうした
と開き直っている私です。

でも正直、 宗教の違いがなかったら、この世の中はもっと平和になるような気がしませんか?
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