作り物の空気




「こちらへどうぞ」
部屋に入ったまま、四方を見回している女性に、椅子を勧めた。
「ああ、ありがとう」
腰掛けてからも、彼女の視線は珍しいものを見るように動いている。
私は苦笑しながら、紫檀のチェストから消毒液と湿布を取り出した。

「人形屋敷と聞いたことはあったけど、中はこんな風になっているのね」
「ここに置いてあるのは、ほんの一部ですよ。これでも客間ですから」

ガラス張りの棚に。子供用の飾り椅子に。
ひっそりとたたずむ小振りな人形たちは、どれも柔らかい微笑を浮かべている。
強い印象を与える人形は、不特定多数を招き入れる部屋には置かないようにしているからだ。
客人が特定の人形と自然に目が合うことを避けるよう、配置にも気を遣っている。
それでも、まばたきもせずにじっと自分を見つめる、ガラス細工の瞳に威圧されてしまうようだが。


「ひとまず、これで傷を拭いてください」
水差しでガーゼを湿らせ、彼女に手渡した。

肩が触れたとか、視線が気に入らないとか。
数分もすれば忘れてしまう感情に動かされた男達が寄って集って
無抵抗の女性に手をあげたことは、まったく理不尽で。
通りかかった私は、それでも一人の力ではどうすることもできず、人を呼びに走ったのだった。
特別な地位も権威もない多くの人々にとって、物理的な力こそが、
他者から抜きん出る唯一の手段なのかと私はやっかみ半分にため息をつく。

状況が悪くなると男達はすぐさま逃げ出した。
残された女性は、顔や腕に打たれた痕が残るものの、たいした怪我ではなかった。
彼らとて、人を殺そうとして殴った訳ではないのだろうから当然だろう。
けれど彼女はショックのためか、すっかり放心していて話もできない状態だった。

「私、何も抵抗しなかったから」
「誰だって、きっと同じですよ」
「いいえ、しようと思えばできた。逃げようと思えば逃げられたのよ」
「え?」

顔を上げた彼女が、私に柔らかい笑みを向けた。
「理論的な理由なんてない、衝動に突き動かされた彼らが愛しかったのよ」

彼女の言わんとすることが見えず、私は沈黙で続きを促す。

「理性や善意なんて、綺麗な言葉で塗り固められた何かよりも、
純粋でむき出しの欲求をぶつけられた方が安心する。
そんなときがあるのよ」
「それが暴力でも?」
「確かに、そうとも言うわね」
優しさへの疑惑、罪悪を味わうよりも、欲しいものがあると。
彼女は独り言のように、言葉を繋いだ。

「強い感情が溢れること。それだけだとわかるから」
「どういうことです?」
「怒りでも苛立ちでも、甘えでも愛情でもない。けれどその全てでもある。
言葉で名前を付けられない、認識することも処理することもできない何かが溢れるのよ」
「それが体を動かし、暴力となって表れると?」
「そうするしかないじゃない」

ふふっ、と彼女は口元に手をあてて、優雅に笑った。頬に貼られた白い湿布が歪む。

「けれど力は力でしかない。人にぶつければ誰かが傷つくし、現にあなたは理不尽に傷を負った。違いますか?」
手当てを申し出た私に、善行の押し付けと非難しているのだろうか。
小さな苛立ちを隠して、私はじっと彼女の瞳をみつめた。
けれどそれは、偽りなど一つもないというように、深く澄んでいた。

「そうよ」
綺麗な瞳が小さく揺れて、ふっと視線が逸らされた。
「私が殺したの」
「・・・」
「最初はこの手で、力の限り叩いた。掌が痺れて、拳が痛くなっても。何度も何度も」

何の話ですか、と口を挟める空気はなかった。
彼女はどこか遠くを見つめている。
微笑を浮かべた人形のガラスの瞳の、そのずっと奥を。

「だけど全然だめだった。少しも伝わらないのよ。私の気持ちのほんの一部も」

あとは手当たり次第に、掴んだものを彼に振り下ろした。
愛していたのだと思うわ、きっと。
だけどそんな言葉では、全然足りない。
突き上げるのは衝動。
押さえきれない何かを、ぶつけたかっただけ。
知って欲しかっただけ。

次第に彼は動かなくなり、その体は形を変えた。
一滴の体液も、砕けた肉の破片も。大切だった、全てが。

「あの夜を暴力と言うのなら、私が彼を殺したのね」

彼女は口の端を吊り上げて、満足げに目蓋を閉じた。

「でも彼は抵抗しようと思えばできた。逃げようと思えば逃げられた。そうでしょう?」

呟いた私に、彼女は小さく頷いてから、ゆっくりと席を立った。


そういえば何年か前のこと、簡素な集合住宅で、
部屋の住人と思われる若い男性の遺体が発見されて話題になったことがあった。
家具もほとんどない部屋の床を、おびただしい量の大小様々なガラス瓶が埋め尽くしていたと言う。
眼球、耳、指、臓器など、丁寧に切り分けられた体の部分が、コルク栓をされたガラスの中で経年により干からびていたそうだ。


振り返って笑顔で手を振る彼女を見送りながら私は、
人の体内に収まり切らない質量を持った感情の行き先を、ぼんやりと考えていた。




END


だいぶ前に書いていたものですが、ようやくアップできました。雰囲気や言葉重視でお話しを書いていると、どうしても似た感じのお話しが多くなるので・・・。精進します(^^;)


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