妖精の海





「妖精をよぶの」


彼女は無垢そのものの笑顔で、そう言った。
まるで夢を見ているかのように、うっとりと。
けれどその瞳は爛々と輝いていて。

私はその深い意味も考えず、頷いていた。

彼女がこれほど幸せそうに話すのなら、内容の整合性など私には関係なかったのだ。



「古い言い伝えがあるのよ。本当は内緒だけれど、特別に教えてあげる」

可愛らしい唇の両端を吊り上げて、さも得意そうに彼女は話した。



月の美しい夜に咲く、薄紅色の花びらを丁寧に集めて、
極上の蜂蜜と共に瓶に詰め、長い年月の間、寝かせると、妖精が好む特別な蜜ができるとか。


花びらには傷一つつけてはならないし、蜂蜜に不純物が混ざってもいけない。
そして保管の間は、決して栓を開けてはならないと。

見せられた陶器の瓶はずしりと重く、しっかりと閉められたコルクの栓は、端の方が腐りかけていた。

全体に施された可憐な細工に見える、しっとりとした艶が、かえってその年代を感じさせた。


とても綺麗な言い伝えだね、と。
私はそう答えた。



彼女は夢見がちな少女だった。
草原で、一人座り込んでじっとしている。
けれどその頭の中には、溢れるほどの空想が広がっていて。
時折、きまぐれのように、その話をしてくれた。


純粋とか清らかとか、そういった言葉をそのままに。
彼女は彼女の空想世界で生きる限りは、この上なく幸福なのだ。


そして、この世界の何者も、本当の意味で彼女を傷つけることはできない。
彼女からは、その危うさ、哀しさ、そして幸福さが感じられる。
その独特の雰囲気に惹かれたのかもしれない。
よく通る川沿いの道から、何度か彼女の座る後姿を見ていた。
そして、不思議と気になるようになったのだ。


声をかけた、きっかけは何だったか。
経緯はどうあれ、私は何らかの時に、彼女に話しかけただろう。



「妖精を呼ぶの。そして一緒に空に帰るのよ」
「空に?」
「そう。私たちに見えている青の、ずっとずっと向こうへ」


言われて、思わず空を見上げたけれど、
深すぎる奥行きのために、目がおかしくなりそうな濃い青が、いつもの通り続いているだけだった。


「あの向こうに、あなたが帰るべき場所があるの?」


めずらしく疑問を口にした私に、彼女は答えなかった。
怒ったのだろうかと、そっと横を伺ったが、彼女はいつもの微笑を浮かべて、空を見たままだった。

今まで彼女の空想世界に口を挟んだことがなかったから、気付かなかったが、
改めて考えてみると、彼女には外の世界の言葉は届かないのかもしれない。

私にとっては間違いなく現実と認識される世界に生きながら、したたかに自分の空想の中にだけ生きている。



「妖精は空に帰るのよ」

それは、私の疑問への答えだったのか。




妖精の好む蜜とは、どのようなものだろう。

私の想像では、
密閉された瓶の中で、花びらの色が溶け出すように、蜜は少しずつ、その濃度を増していく。

とろりとした琥珀色の液に、閉じ込められた花の香は益々強くなり、もう個々の香の判別がつかない。
それでいて、誰もを魅了するような、甘い香を放つのだろうか。



「妖精を呼ぶの」


病に倒れてからも、彼女はまるでうわごとのように、そう言い続けた。
いや、初めからうわごとだったのかもしれない。
それは彼女にしか理解できない世界のことなのだから。


「だけど、もう空には帰れないね」

ベッドに横になったまま、動けない彼女の小さな声を聞き取ろうと、身をかがめた私は、突然髪を引かれて驚いた。
彼女の瞳は、相変わらず自分だけの世界を覗き込んでいるけれど。
見たことのないような、異様な輝きを見せていた。

私の肩から滑り落ちた長い髪の一房を、しっかりと掴んだ彼女の痩せた腕に力が籠もる。


「もう空には帰れないから。だから海に帰るね。 空をいっぱいに映した海に帰る」


何が彼女を諦めさせたのか。
何の言葉も発せられない私の沈黙を、意に介す様子もなく、彼女は再びいつもの微笑を浮かべた。

髪は、とうに彼女の手から開放されていたけれど、私は身動きすることができなかった。


妖精は来ないの?

妖精は来ないと知ってしまったの?


この世界の常識なんて、知る必要はなかったのに。



私が思い浮かべる妖精は、小さな体に尖った4枚の羽を持った小さな存在。
大きな瞳に、小さくて勝気な唇。
それはまるで彼女その人のような。

ウスバカゲロウが持つような、オーロラに光る薄い羽根には、空の彼方へ向かうほどの力があるとは思えないけれど。
そんなこと、彼女が知る必要はなかった。

命の灯火と反比例するように、彼女の認識世界は私と共通項を持つようになっていった。
それを安心する反面、哀しくも思った。
それでも息を引き取る直前まで、空への嘆きと、海への異様なまでの執着を見せていたが。


「------に帰るから・・・」


最期の言葉は、誰も聞き取ることができなかったそうだ。


---------------



荒い風音。
白い飛沫を上げ、うねる波。

昼間でも不思議な恐ろしさを感じさせる岩場に一人、私は立っていた。
手には、私の元に残された、白い陶器の瓶。
どうすれば良いか思いつかず、しばらく放置していたのだ。

彼女の夢が、たくさん詰まった瓶。
できることならば、夢のままに、彼女のもとへ送ってやりたくて。


彼女が海へ帰ることができたのかは知らないけれど。
空想と現実の狭間を象徴するこの瓶を、海へ帰そうと、
そう考えたのは自然なことだった。


けれど、どうやって帰せば良いのか。
空をいっぱいに映した、静かな海を臨む浜辺では、当然ながら私が手を離した途端に沈んでしまう。


もっと遠くへ。
私の知らない海のどこかへ届けなくては。


そうして臨んだのが、この荒波の岩場。
道なき道どころか、まるで飛び岩のような足場を渡り、
これ以上進めないところまでやってきたのだ。


まるで自分が一人、海の只中に立っているような感覚すら覚える。
私を他の全てから隔てる、力強い波。
これならば瓶も運んでくれるだろう。

少し視線を移せば、間違いなく空は海に映っているから。
ほんの少しの未練を打ち切り、私は白い瓶をできるだけ遠くに放り投げた。


彼女の元へ届くように。


波は想像以上に強いものだったらしい。
瓶はくるくると回りながら、規則的な音を立てる水面に落ち、白い泡の間から何度か顔を覗かせた。

これならば、沈んでこの場に置き去りにされることもないだろう。
私は満足して、ろくに足場もないような岩を渡って戻リ始めた。



何気なく振り返ったその時。


ひときわ大きな波に乗った白い瓶が、ゼリー状にも見える水のかけらと共に押し寄せ、宙を舞った。

それはまるでスローモーションのように、荒波の間に顔を出した岩の一つに打ち付けられ。
水が弾けると共に ごく自然に 粉々に飛び散った。


濡れた岩に、どろりとした黒い液体が広がる。
腐ったコルクの隙間から入ったのだろうか、無数の小さな白い蛆が、慌てたようにのたうっていた。

荒い潮風に混じって、ただよう腐臭。

けれど数秒の後には、新たに打ち寄せた波が、全てを洗い流していく。
相変わらず強い潮風が、立ち尽くす私の長い髪を乱れさせた。
何事もなかったように、波は規則的な音を立て続ける。



私は声をたてて哂った。



END

タイトルに偽りあり・・・でしょうか。
まるでファンタジーのようなタイトルですね。
こんな内容だとは、誰も思うまい・・・。

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